新しい年は、希望を抱いて始めたいと願います。しかし同時に、社会の先行き、世界の情勢、経済の不安、そして教会や家庭の中にある課題を思うと、「今年はどうなるのだろうか」という不安が、自然と心に浮かびます。
そのような年の初めに、今日、私たちに与えられている聖書の言葉は、使徒言行録24章でした。この章でパウロは被告人として、ローマの総督フェリクスの前に立たされています。訴えられ、裁かれ、自由を奪われた状況の中にあります。普通であれば、無実を必死に訴えたり、早く解放されることを願って語ったりしてもよいはずです。しかしパウロが口にした言葉は、意外なものでした。「正しい者も正しくない者も、やがて復活するという希望」を口にしたのです。パウロは、この裁きがどうなるか、ではなく、復活の希望を語ったのです。
復活の希望とは、いったい何なのでしょうか。それは、「うまくいく」という保証でも、「この世で正しく評価される」という約束でもありません。この一年に起こる出来事が、地上の生涯の全ての出来事が、私たちの人生の最終的な結論ではないという信仰です。裁く者も、裁かれる者も、成功した者も、失敗した者も、最後には、神の前に立つ。神が、最後の言葉を語られる。パウロは、その希望に立って、裁きの場に立ち続けました。
このパウロの姿は、20世紀に生きた一人の神学者の人生とも、深く重なります。ナチス・ドイツを打倒すべくヒトラー暗殺を企てたことで知られる神学者、ディートリヒ・ボンフェッファーです。ボンフェッファーもまた、国家権力の前に立たされ、投獄され、最後には命を奪われました。彼は、決して安全な場所から神学を語らず、自らの選択の結果として、監獄の中に置かれることも受け入れたのです。
処刑の直前、彼はこう言い残しました。「これは終わりだ。しかし私にとっては、命の始まりである。」この言葉は、死を美化する言葉でも、絶望を否定するための強がりでもありません。ボンフェッファーは、この世の正義や成功が、自分を救うとは考えていませんでした。彼が信じていたのは、復活の主に結ばれた人生は、たとえこの世で断ち切られても、神の前では終わらないという希望でした。復活の希望とは、生き延びるための保証ではありません。正しくあれば報われる、という単純な仕組みでもありません。それは、どのような状況に置かれても、神の前で誠実に生き続ける自由です。パウロも、ボンフェッファーも、その自由に生きました。裁かれる立場に置かれても、恐れの中にあっても、それでも、自分の人生を、神の手に委ねて立ち続けたのです。
年の初めに、私たちは改めて問われています。この一年を、何を希望として歩んでいくのか。成功でしょうか。安定でしょうか。それとも、復活の神に人生を委ねる希望でしょうか。復活の希望は、この一年を安全に過ごせると保証するものではありません。しかし、どのような一年になろうとも、神の前に立ち続ける勇気を、私たちに与えてくれます。
この希望をもって、2026年の歩みを、共に始めていきましょう。
中村恵太